1.ハバナ
正直言ってしまうと、僕はハバナよりサンティアゴの印象の方が良かった。それは見所が多かったからということじゃなく、人が良かったからだ。ここにもヒネテーロはいたけれど苦痛に思うほどじゃなかったし、何か根本的な雰囲気がとても親しみやすかった。この旅行に行く前にはキューバの人たちはとてもフレンドリーで親切で話しやすいという話だったので期待もしていったんだけど、ハバナではもはやそれは失われつつあると感じられた。その代わり、ここサンティアゴはその噂にたがわぬ街だった。

ちょうど大晦日だった。今晩この広場で何かイベントがあるらしく準備に忙しかった。僕はもっといたい気持ちを押さえながらサンティアゴの空港に向かった。
ハバナの夜も暗かったが、ここサンティアゴの夜も暗い。暗がりで人がうごめいている感じだ。ハバナでお世話になったAさんも、ときどき停電もあるのが困るとこぼしていた。僕の仕事は電力関係なので、こういうのを聞くと何とかしたいなぁという気持ちになる。でもきっとアメリカの「ヘルムズ・バートン法」が邪魔してきちゃうんだろうけど。
サンティアゴ郊外のモロ要塞。ハバナにも同名のがありハバナ・ビエハと一緒に世界遺産に指定されているが、こちらも要塞単独で最近指定を受けた。でも実はそれを知ったのは帰国後なんだけど。

直接要塞とは関係無いかもしれないけど、サンティアゴ港の出口のあたりで米西戦争のとき、大規模な海戦が行われてる。このときアメリカ側はぼろ舟を港の入り口に沈めて港をふさいじゃう戦法を取ったそうで、このときの戦法を数年後の日露戦争のときに東郷平八郎が、旅順港封じ込めに使ったのは有名な話。

そういった米西戦争や海賊の資料なんかを展示していて見ごたえがある。こういう要塞関係ってのは物悲しいような独特の風情があって好きだ。
ドルでしか買えない品(電化製品等)を売ってるドルショップはどこも大変な行列。万引き防止のためか店には一度に数人しか入れないので店の前に長い行列ができてしまうのだ。ハバナでも昔はあったそうだが、最近は一部を除いて無くなったそうだ。でもここでは今でもしっかり残ってる。見てるとみんな世間話でもしながら気長に待ってるふうだけど、僕がこれをやるとなるとイヤだろうなぁ。

アメリカが経済封鎖をやめたら経済はなんとかなる。とフィデルは言ってるそうだけど、とりあえず早くそうなったらいいなと素朴にそう思う。
バカルディ博物館はその名の通りバカルディ家の屋敷だったところで見た目どおり比較的最近の1899年に建てられたものだ。バカルディといえばラム酒。プエルト・リコの同名のお酒が有名なんだけど、もともとはキューバで作ってたものを革命騒ぎで亡命したときに名前ごとプエルト・リコに持っていってしまったって訳。キューバでも同じ物を作りつづけたので裁判になり、バカルディ一族側が勝って商標権を得たのだった。でもこの裁判ではアメリカ側の圧力がかかってたと言われてるし、バカルディという名が使えなくなって、「ハバナ・クラブ」と名前が変わったんだけど、こっちのほうが美味いと評判だ。15年物はキューバでも1万円ぐらいする。

あ、収蔵品は大したことなかった。あの種の絵画なんかはやっぱ本家欧州あたりのほうが良いようだ。
サイドカーもキューバではおなじみの乗り物。どこでも見かける。うっかりしてちゃんとした写真を撮らなかったのがちょっと残念。やはりこういうクラシカルな乗り物とクラシックカーは愛称が良い。日本じゃキカイダーぐらいだもんなぁ。思わずシートに座りたくなる。

しかし、こういう中年のおっさんが乗るサイドカーってのもなかなか絵になるもんやね。。

小高い丘に立つ要塞から下のほうに降りていく道が伸びていた。荒れた道をず〜っと下っていくと海に出た。

岩場で若者が2人釣りをしていた。バケツなど脇に置いて素朴な釣りをしている姿は、見ていると故郷の港町を思い起こさせた。僕達も子供の頃こんな釣りをやっていた。

社会の仕組みがどんなに違おうが、結局根っこのところでやってることなんてどこでもそう違いはないもんだ、と思える。日本もキューバも島国って事では共通してるのだ。将来世界の風向きが変わってこの国ともっと親しく話せるようになったらいいなぁと思っていた。
もちろんそうは言っても、この街に活気が無いなんてことは無い。いやありすぎるぐらいだ。ここサンティアゴは日差しのまぶしい街だし、気温だって冬でも30度。街の人だって底抜けに明るいし、ストリートは車の騒音と人の声でとてもやかましい。

みんなアイスキャンデー食べながら歩いてる。僕も何本も買ったなぁ。ここのアイスキャンデーは日本のに比べると溶けやすいのが欠点。味は日本のも変わらない。
   
Bサンティアゴ・デ・クーバ


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