1928 | アルゼンチンのロサリオに生まれる |
1947 | ブエノスアイレス医科大に入学 |
1953 | 医科大卒業、当時ベロン独裁政権下であった母国に嫌気がさし、半亡命の形で南米放浪する。 |
1954 | メキシコに渡る。 |
1955 | カストロらに会う |
1956 | カストロらと共にキューバに渡りゲリラ戦開始 |
1959 | キューバ革命、以後政府の要職を歴任する |
1965 | キューバを去りアフリカ、コンゴにてゲリラ戦開始 |
1967 | ボリビアにてゲリラ活動中捉えられ射殺 |
キューバは一般的に社会主義国家と言われるけど、識人の間ではこういわれる。「キューバは社会主義国家ではない。カストロはアメリカに対抗するための方策として社会主義を標榜してきただけで、もともとそんなものに興味は無いのだ。彼がほんとうに信奉しているのはホセ・マルティ主義だけだ」と。 ホセ・マルティは1853年、ハバナで生まれ。第一次独立戦争の最中、17歳のときにスペイン当局から禁固刑を受けピノス島流刑となる。その後スペインに渡ってマドリード大学で学問を修め、フランス、メキシコ、グアテマラ滞在を経て思想家、文学家として認められるようになる。 1878年、キューバに戻り祖国独立運動を展開するものの、スペイン当局から追放される。その後ニューヨークに渡り見聞を深める。後、祖国に戻り「キューバ革命党」を結党、この団体が母体となり、1895年、第二次独立戦争がはじまる。しかし戦い序盤にして敵弾に散る。 |
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行動もマルチなら才能もマルチ。革命家という以外にもジャーナリスト、思想家、教育家などさまざまな顔を持つ。スペイン、フランス、アメリカ、メキシコ、ベネズエラ、グアテマラ等滞在した国もかなりの数で、行った先それぞれで何かしら意義のある仕事をやっている。正直とても追いきれない。凡人は「何だか知らんがすごい」と言うにとどめます。 |
この流れで小説家を紹介するというのなら、むしろガルシア・マルケスの方がふさわしいのかもしれない。なんと言ってもカストロとは料理のレシピを交換するぐらい仲が良いのだから。でも残念ながらよく知らない(一冊しか読んだことが無い)。それに日本人になじみの深いのやはりこちらの方でしょう。 ヘミングウェイは今更言うまでも無く、世界的に有名な小説家だし、「老人と海」はかなりの人が読んだことあるのでは?彼がキューバにかかわるようになったのは、1928年のこと。このときはたまたま立ち寄っただけだったらしいけど、それ以来彼はすっかりこの地に魅せられてしまった。 |
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足しげく通うようになったキューバの常宿が、ハバナ市内のアンボス・ムンドスで、彼はここで「誰がために鐘は鳴る」を書き上げた。そしてこの作品の売上で1940年、ハバナの郊外に「フィンカ・ビビア」という名の居を構えた。シドは行かなかったけど、丘まるごとといった大邸宅だそうだ。その邸宅でキューバ革命のあった翌年1960年までをすごし、52年には「老人と海」を出版。大ヒットとなり54年にはノーベル文学書受賞。その後健康を害し(内臓疾患や精神)革命の翌年(60年)一時亡命という形でアメリカに帰国。その翌年猟銃で自殺した。 さすがにキューバを愛していただけあって、彼はフィデルとも親交があったし、また革命政府も彼のさまざまな遺産を大切に保存しているので、現在は博物館になっている彼の邸宅や「老人と海」の舞台になったコヒマル、常宿にしていたホテル・アンボス・ムンドスに頻繁に通っていた「ラ・ボテギータ・デル・メディオ」「ラ・フロリディータ」などで容易に足跡をたどることができる。 シドは飲めないからしょうがないけど、ハバナに行ったら、「フロリディータ」でパパ・ダブル」と言う名のヘミングウェイが愛した「つよ〜いダイキリ」をいただくのはお約束らしい。やっぱ酒は飲めた方がいいな。 |
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